top of page

爺医ってなかなか言い得て妙

じじいって呼ばれると、確かにそうなんだがあまり良い気はしない

自分のことは自分でじじいとは言う

文字に書くとJ J I はじぇじい? I が見えずらい

G G Iも I が見えずらいしG(ごき)感が強くなる

最近 Z Z Y ってのもみつけた これは字面が良いが

文字として書くなら爺医が良い

爺の医者 前職は歯科医 

免許を返納したわけではないのでいつでも診療可能

じじいと呼ばれても脳内変換して爺医にすれば尊称になる

PCでは爺って簡単に変換出来るが

実際には今まで書いた事が無いかも

いや書けないかも

当たり前の話だが

「絵を描こうと思った人だけが絵を描ける」

フォトグラフも同じだと思う

闇雲にシャッターを押しても  何らかの画像は撮れるが

それは意志の働かない無秩序な切り取りに過ぎない

万に一つ 意味ありげな画像が写ったとしても

そのままでは意味をなさない

フォトグラフはフォト=光とグラフ=描くで かつては光画と呼ばれていた

写真と訳すより光画と訳したほうがしっくりとくる

デジカメで採取した光のデータを使って絵を描く

その為には単にシャッターを押すだけではなく

光で描くイメージを持ってシャッターを押す

つまり 撮ろうと思った人だけが撮れる

イメージが有って初めてシャッターを押す

出会い頭だとしても それが

自分の中に有るイメージと合致したから撮る行為に繋がった

そもそもイメージが無ければ出会い頭でも

それを撮ろうとは考えない

けれども今あるイメージだけだと手詰まりになる

もっと見聞を広めイメージを広げないと

絵画に学ぶことは多い

フォトグラフは自分を写す鏡

光で描く言葉

もっと引き出しを増やそう

 

 

「常識の嘘」

日光東照宮って行ったことはないが三猿は知っている

井伊神社の月次祭の折に禰宜さんから三猿の話を伺った

見猿・聞か猿・言わ猿は、余計なことは見ない、聞かない、

言わない、ということを表すと思われて居るが、

それは間違いであると。

子供に対する教育方針なのだそうだ

子供に対して悪いことは見せない、聞かせない、言わないのだそう

​*写真は井伊神社外陣天井絵と内陣入り口

「マイブーム」

最近のマイブームは月と彦根城

市内全域からお城は見えるんだけど

お城と月が重なって見える場所は限られる

樹々や電線や建物に邪魔される

江戸時代だったら撮りやすかったろうに

ライトアップされたお城は明るい

月も意外と明るく、そして早い

露出を上げると白飛びするし、下げると黒潰れする

自然光で撮れれば良いんだけれど

そんな機会は一年に一度有るか無いか

望遠ではブレ対策もとても重要

カメラ・レンズ・三脚をブラッシュアップすれば

くっきり・はっきり・明るく撮れるだろうけれど

果たしてそれが良い絵だろうか?

高い絵の具を買えば上手な絵が描ける訳じゃ無い

光(フォト)を捉えられれば

描く(グラフ)ことは出来る

今あるもので頑張ろう~

「写真の大きさ」
岐阜城と月の様な彦根城での月城を撮りたくて
PCで場所を調べるが、月の方向はわかるが高さが判らないので
現地へ行ってみた
何度も行ったことのある場所で、お城が見えることも分かってたが
月がどのくらいの位置に来るかは現地でないと判らない
スマホのアプリで月の位置を見たけれど、どうも動作が不安定で
はっきりと判らないが、おおよその方向だけは判った
満月の日、早朝、眠いし曇ってるし撮影に行こうか迷ったが
行かないで後悔するよりも、行ってみてダメなら諦めもつくし
次回のロケハンにもなるからと出かけた
明るさは丁度良かったが、月の位置が高すぎる・・・
見た瞬間、月城は撮れないと判った
天守と満月とは随分と離れて居る
方向的にはおおよそ合って居るが高さが合わない
ピンポイントでお城が見える場所なので、移動もできない
ならばどうする?撮らずに帰る?
今の位置関係だと、お城と月と両方を入れて撮ろうと思うと
どちらの大きさもとても小さくなる
イメージとしては、この倍の大きさで撮りたいが位置的に無理
イメージとしてあるのはA2からA3の大きさ
だったらこれをA0で出力したら
月の大きさはA2をイメージした倍の大きさで出力される
つまりイメージ通りの大きさになるってこと?
ん〜・・・どうもA0の大きさってイメージできない
この写真をスマホで見たらお城と月は小さいに違いないが
A0の写真で見ると適正な大きさに見えるのか?
100インチ(凡そA0の倍)モニターで見れば、逆に大きすぎる?
もう一つは、観てもらう距離
A2の写真を1mの距離から見るのか5mで見るのか
スマホやPCならごく間近で見るわけだし
100インチのモニターなら5mくらいか
ということは 大きくして観てもらう作品
A2・A3サイズで観てもらう作品
ポストカードサイズで観てもらう作品と
それぞれのイメージで撮れば良いってことか
きょうも思案に暮れる^^

 

「聖なる一回性」と言う言葉

ドイツの思想家の考えだそう。

複製品には「聖なる一回性」の感動がなく、ライブの体験すなわち、一回きりの、一回しかない事にこそ感動の源がある。のだそう。

直弼公の「一期一会」も同じ考えだと思う。

撮影行為は正に「一期一会」であり「聖なる一回性」でもある。

しかし撮影した画像をディスプレイなり、紙媒体なりに写したものは、複製品であり、撮影者にとっては「聖なる一回性」では無い。

しかし、それを観た人が撮影時の感動を感じてくれたとしたら、それは「聖なる一回性」と言っても良いのでは無いか、と思う。

更に、フロイトは「はかなさ」について、「美しいものが、儚い故にその価値は上がる」と言って居る。

すなわち、美しいものは失くなるが故に価値がアルのであり、文字通りアルのが難しいって事が「有難い」、という日本人の価値観に繋がって居る。

更に更に、その価値観は「侘び寂び」にも繋がっていくのだろう。

結果として自分の中にある価値観を表現したものがフォトグラフに現れてくる。そしてそれをどれだけ研ぎ澄まして表現出来るかがフォトグラファーとしての資質だと思う。

現実は仮想現実よりもリアルであり、仮想現実として現実を表現しても現実を追い越すことはできない。

ならば、せめて現実のように思える仮想現実を創り上げる事が出来ないだろうか?

フォトグラフは過去の或る一瞬の現実であり、過去に有った紛れも無い事実。

現実は観た瞬間に過去になっていくが、フォトグラフは過去の一瞬を永遠の一瞬に留められる。

観た人を一瞬の現実に引き戻せるのでは無いか?

と、きたやまおさむ著「良い加減に生きる」の出だしの一言からつらつらと連想した。

bottom of page