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​旧井伊神社縁起

 彦根藩は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで大きな功績を上げた井伊直政を藩祖とする。

徳川四天王の一人と数えられる。

上野国高崎より近江国佐和山へ移封されるが、関ヶ原での鉄砲傷が元で、2年後に死去。

彦根城は直政の死後(慶長7年2月1日・1602年)家督を引き継いだ嫡男直継が慶長8年(1603)に彦根山に築城を家康に願い出て、慶長9年(1604)7月1日より本格的な土木工事が開始された。
慶長9年末(1604)に完成した鐘の丸に佐和山城から移る。慶長12年(1607)頃には天守閣が完成。その後数年のうちに城郭の主要部はほぼ完成する。直継は庶弟直孝と同年齢。病弱の直継の代理として、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に出陣。その時に大功績をあげ、家康から父直政の家督を継ぐ様に命じられる。これにより彦根藩主となり、直孝を二代目とし、直継(12年ほど彦根藩主)は分家(群馬県安中市/安中藩)初代とみなして、歴代当主とは数えない。

直政の時代を含めた藩政の初期には、当主による寺院の創建・移転が活発に行われた。

 

井伊神社は天保13年(1842)に彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷(現静岡県)八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされます。

また、彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝も祀られている。

 

天保13年(1842)6月、井伊直亮が井伊八幡宮を井伊共保750回遠忌法会に間に合う様に、仮殿として造営を命じる。

 

天保13年(1842)8月、井伊八幡宮(仮殿)完成。井伊共保750回遠忌法会が行われ家臣が参詣す。

 

弘化2年(1845)正月、井伊八幡宮・本殿の造営開始。社殿の建築様式は複合社殿の様式をとり、いわゆる権現造である。全体を朱漆で塗り、組物などには極彩色を施す豪華なつくりである。本殿・拝殿は入母屋造で相の間が二棟をつなぐ。

 

弘化2年(1845)8月、仮殿から本殿への遷座が行われる。現在の井伊神社旧社殿が完成する。

境内の様子は現在とは違い、詳細は不明であるが、境内には冠木門や中門、堀や橋が架けられていた様である。

井伊八幡宮の造営は、藩の直営で進められ、総奉行は彦根藩家老の木俣土佐・小野田小一郎が務めた。

この造営で棟梁を務めた小森徳兵衛・長谷川嘉棟太は彦根藩の大工。

拝殿向拝の彫刻は、長浜の早瀬守次とあり、長浜曳山まつりの曳山の彫刻師として知られている。

直亮が井伊八幡宮を創建した直接の経緯は、共保公の750回忌であるが、翌年に挙行予定の江戸将軍家慶(いえよし)の日光社参もあった。これは求心力の低下した将軍権威を強化する為に行われたという。天保12年(1841)まで大老を務めていた直亮は、日光社参の目的もよく理解していたはずで、直中から藩主適正を否定されていた自分の藩主としての権威を高めるためにも、直中が建立した清凉寺護国殿とは異なる、君臣関係を再構築する装置が必要だった

 

明治2年(1869)名称が井伊神社に改称される。

境内の様子は幕末期とは変化し、堀や橋はなくなり、中門の位置も社殿よりに後退している。鳥居の南東に入母屋造の建物がたち、中門の手前には手水舎、社殿南に神楽殿があったと思われる。

 

明治9年(1876)清凉寺護国殿は佐和山神社と名称を変え直政・直孝を祀る県社となる

昭和13年(1938)佐和山神社(旧清涼寺護国殿;現在は福井県敦賀市天満神社に移築)が合祀される。

この折、佐和山神社の御神体である、直政・直孝の坐像が井伊神社へと遷される。

 

昭和13年(1938)祖霊社(旧天寧寺観徳殿のこと)が合祀される。

直中と直弼の坐像が井伊神社へと遷される。昭和38年(1963)観徳殿は荒神山神社に移築、荒神山神社遥拝殿となる。

 

井伊神社本殿には、本来の御神体の共保公、直政・直孝。直中・直弼、に加えどこからか直中公の像があり、計六躰。

共保公は新社殿に?それ以外は彦根城博物館に安置されている。

 

平成25年(2013)彦根市指定文化財に指定。

 

境内の鳥居や石灯籠などの石造物は、社殿造営の弘化2年(1845)と同時期に彦根藩士からの寄進。

主に藩内で家格の高い藩士からの寄進であり、藩主との親疎にもとずき、規模・数量・位置が決められた。

すなわち、境内全体が君臣関係を確認する場所として位置付けられていた。

 

社殿は権現造であり、東照宮などの霊廟建築の際によく用いられる。本殿と拝殿が相の間で一直線に繋がれている。

本殿とは神と祀る部分 相の間(合の間・石の間とも呼ばれる)は本殿と拝殿を繋ぐ部分 拝殿は参拝する部分

本殿・拝殿は入母屋造で、相の間が2棟を繋ぐ構造。

 

本殿内部は、外陣と内陣に分かれる。天井は格天井。内陣は畳敷、外陣は中央が畳敷、その両脇は拭板敷。

柱は全て円柱であり、釘隠しには井伊家の家紋の彦根橘の飾り金具が用いられている。

頭貫(かしらぬき)の木鼻は、獅子の丸彫りや牡丹の籠彫り、内装は朱漆・黒漆・極彩色・金箔貼り。

格天井の格縁には黒漆、角を几帳面取とし金箔が貼られている。

天井板は金箔の上に植物の花卉(かき;花の咲く草)図が貼り付けられている、とても凝った作りになっている。

 

彫物は長浜の早瀬守次の作で、長浜大通寺山門の彫刻・長浜曳山まつりの曳山の木彫り

彦根城天守の六葉(釘隠の金具)に名が刻まれている事から天守修復に関わった・清凉寺の釣木魚作成に関わった

 

本殿天井絵は狩野派の御用絵師と思われる。精緻で上質な筆使い、「トロ」の技法を使用したと思われ、

全部が同じ筆使いで描かれている。

「トロ」とは絵具の中に胡麻油を滴下し、2度3度重ね塗りをすることによって、濃厚な彩色を施す技法。

 

拝殿・相の間の天井絵は、その技法や使用色材・絵様や筆描線のタッチが異なる事から、

数人の異なる作画者によるものと推測される。

 

本殿格天井の天井絵は、内陣33個、外陣33個、相の間に56個、拝殿に96個存在する。一部作画途中の物もある。

井伊家当主やその子弟は狩野派や丸山四条派から作画の手ほどきを受けており、絵画に親しみ又画業に秀でた人物も多かったと推測される。拝殿や相の間の絵画には、井伊家所縁の人々の作画も含まれていたと思われ、当然その中には井伊大老の作画も有ったのではないかと思われる。今後確認されることを期待する。

 

本殿内には5個の厨子があり、外陣に2基 内陣に3基。

直政・直孝・直中・直亮・直弼そして本来の御神体である共保公の計六躯。

のちの調査で直亮とされていたものは直中であった。直中像が二軀であった。

どの坐像がどの厨子に安置されていたかは不明である。

共保公以外の坐像の大きさは、概ね幅80〜88cm 奥行き50〜56cm 高さ60〜65cmである。

井伊八幡宮本殿内陣中央の厨子には、その茵に六脚の台が載っていた痕跡があり、おそらくここに本来は共保公が祀られていたと思われる。

 

内陣中央にある厨子には、その内部の大きさから、共保公の坐像が安置されていたと思われる。

天保13年(1842)井伊神社創建当初より厨子に安置されていたと思われる。

 

共保公の坐像については、新井伊神社には祀られておらず、所在不明である。(2023/11/17に多賀大社に確認済み。遷座時の記録は残っておらず、経緯も所在も不明である)

よってその大きさも不明である。

 

清涼寺護国殿にあった厨子に入った直政像・直孝像と、天寧寺観徳殿の厨子に入った直中像・直弼像は昭和13年(1938)に井伊神社に合祀された際に、遷座されたと思われる。もう1躯の直中像はどこから由来したのか不明。

 

内陣に向かって右の厨子には直政、左の厨子には直孝、外陣右の厨子には直中の像が安置されていたと思われる。

どの厨子も同時期に建造された同一形態の厨子である。文化5年(1808)に制作されたと思われる。

 

外陣左の厨子は大きさはほぼ同じだが細部がやや異なる。制作年代から推定して直中の像が安置されていたと思われる。

文化2年(1805)に制作されたと推測される。

 

残る直弼の像は厨子ではなく、外陣中央に置かれていた?

 

どの厨子にどの像が祀られていたか、その配置や安置状態は、多賀大社にも記録がなく不明である。

 

井伊神社社殿前には創建と同時に中門が建てられ、長く保存されてきたが、老朽化のため平成10年(1998)4月に解体され、楽楽園内の倉庫に保管されている。

 

旧井伊神社社殿のように、本殿と拝殿を前後に並べ両者を繋ぐ建物(相の間)で一体的に作った社殿を一般的に権現造と呼ぶ。

17世紀中期まで相の間は一段低く作られていたが、それ以降は低く作られているのは井伊神社のみである。

本殿と拝殿は共に入母屋造。井伊神社が建設される以前の文化4年(1807)に、清凉寺の護国殿が建設され、同じく権現造であった。敦賀市の天満神社に移築され現存している。昭和13年(1938)佐和山神社(旧清涼寺護国殿;現在は福井県敦賀市天満神社に移築)が合祀される。

この折、佐和山神社の御神体である、直政・直孝の坐像が井伊神社へと遷される。

 

彦根には井伊家の祖や現当主を祀る施設として、清凉寺護国殿・天寧寺観徳殿・井伊八幡宮の三つがあった。

11代直中は井伊家初代・二代を祀る護国殿を造り、次に自らの寿像を祀る観徳殿を建てた。その息子12代直亮は、井伊家始祖の共保を祀る井伊八幡宮を建てた。

 

彦根城下には彦根藩・井伊家から篤い庇護を受けた寺社がいくつもある。

清凉寺は井伊家の菩提寺で有る。境内に井伊家歴代当主の墓所がある。龍潭寺は井伊谷から僧を迎えて建立された。

長純寺は初代直政の姉の菩提所として創建。(直虎の従兄弟の直親の娘=直政の異母姉;高瀬姫・春光院)

北野寺・北野神社では彦根藩・井伊家に関わる祈祷が度々行われた。養春院・長光寺・地福院でも行われた。

長寿院大洞弁財天堂は彦根城の鬼門除け。仙琳寺は直中と直興の彫像が安置された。

天寧寺観徳殿は直孝建立の寺を現地に移し寺号を変え直中自身の像を置いた。羅漢堂は長男の関わった事件の菩提を弔うために建立されたと伝わる。(伝承によると、腰元·若竹が不義の子を妊娠したとの風評を耳にしたため藩の法度として死罪に処したところ、不義の相手が長男·直清だったことが判明し、母子の追善供養のために建立)

 

直亮に家督を譲った後に直中は天寧寺を、彦根城の見える位置に直中主導で建立した。また仙琳寺にも自像を置いた。これは直亮に対する不安があったとされる。直中は遺言状に、正室の子であるため賢愚を考慮せず家督を譲ったが、その後の政事の様子を見るにつけ不安心を持ち、七箇条にわたり直亮の人格の問題を認めた。一に勇気と決断力の欠如、二に家来の信頼を得られないこと、三に怒りを露わにする気性の荒さ、四に隠し事をすること、五に善悪の判断がつかないこと、六に物言いが不分明なこと、七に親のゆうことを聞かないこと。以上の遺言をもって直中死去後は直亮を隠居させるようにと締めくくっている。しかし直中死後、直亮は遺言に従わず隠居することなく40年の長きにわたり藩主を務めた。

 

直中は寺社の造営や整備を積極的に行った一方、直亮はあまり積極的ではなかったが、唯一井伊八幡宮のみは彦根藩の一大事業として、その装備も豪華絢爛を誇った。このことは社会情勢の混乱や藩祖信仰の高まりを受けて成されただけでなく、直亮が直中よりの不信任を受けて、それを払拭するべく共保公を御神体と成して直中を凌ごうと,彦根藩の建築技術の集大成とも言える造営であった

 

井伊神社旧社殿の塗装彩色材料と技法

 

社殿外部・屋内木彫り彩色材料は、白色の胡粉下地が施された上に、金箔・金泥・白色・赤色・橙色・紫色・緑色・白緑色・青色・空色・黒色・海老茶色の繧繝(うんげん;濃い色から少しずつうすくなるように段階をつけて色どる)彩色で装飾されている。

拝殿の小壁9面には金砂子撒き和紙の上に四季の花卉図が描かれる貼付絵画が存在する。正面入り口右側には藤と撫子、中央虹梁部材上右端には続きの藤が左端には薄秋草(すすきあきくさ)、正面入り口左側に薄(すすき)・桔梗・女郎花、左手小壁正面に冬の南天もしくは千両の実・早春の水仙・秋の紅葉、奥の相の間側には秋の紅葉の続きと白菊・梅雨時〜夏の鬼百合・姫紫陽花、背面左手の相の間境に冬の白椿、背面右手の相の間境に秋の萩、右手相の間小壁側に早春の梅・初夏の芍薬・杜若、右手小壁入口側に初夏の杜若・早春の水仙・初夏の柘榴などが精緻な筆で描かれている。これらは季節ごとに順序立てて配置されていない点や低木の幹に琳派好みの「垂らし込み」の技法が用いられている。

 

本殿外陣正面には桟唐戸があり、右扉には金砂子撒きの紙本に蔦が絡まる松と飛翔の丹頂鶴が二羽描かれている。左扉には金砂子撒きの紙本に蔦が絡まる松と直立の丹頂鶴が三羽描かれている。

本殿内陣黒色漆塗り格天井には縦3面✖️横11面の計33面の紙本金地着色花卉草本絵図が嵌められている。金箔貼りの中央に円形で比較的厚塗りで丁寧な彩色で描かれている。この彩色の色相は、赤色・紅色・淡赤色・淡紅色・淡桃色・赤紅色・海老茶色・橙色。青色・白色・白群色・青紫色・黄色・透明感のある黄色・緑色・白緑色・紫色など多岐にわたる。寺社仏閣の装飾画に濃厚な彩色を行うために、胡麻油を絵具に点滴して2・3回塗り重ねる「トロ」と呼ばれる技法が用いらたと思われる。この技法は長崎から導入された西洋の油彩画技法の応用と思われる

 

本殿外陣には、金箔縁に黒色漆塗りの格天井に内陣と同じく33面の花卉図が貼付されている。

内陣と全く同様の彩色材料・技術が用いられている。

 

拝殿天井には朱漆縁に黒漆塗りの格天井に縦8面X横12面の合計96面の紙本金地着色花卉草本絵図が天井板に貼付されている。本殿天井絵の紙本惣金地着色とは異なり、金箔貼りの中央に円形で配置された外縁部は金箔貼りであるが、余白部は紙本金砂子撒きであり、本殿とくらべてやや淡白な絵具塗りの伝統的な日本画の彩色技法である。各絵図の図様表現は巧拙入り混じり、複数の異なる作画者と想定され、一部下絵のままのものも見られる。絵具の葉の色相には、円山四条派が好む「付立」の彩色技法がいくつか見られる。

 

相の間天井には朱漆縁に黒漆塗りの格天井に縦8面X横7面の合計56面の紙本金地着色花卉草本絵図が天井板に貼付されている。本殿天井絵の紙本惣金地着色とは異なり、拝殿と同じに、金箔貼りの中央に円形で配置された外縁部は金箔貼りであるが、余白部は紙本金砂子撒きである。拝殿と同じく、本殿とくらべてやや淡白な絵具塗りの伝統的な日本画の彩色技法である。拝殿とは若干異なるタッチの絵画もあるが、基本的な彩色材料・技術とも拝殿と同じである。

 

井伊八幡宮の造営に携わった木彫り師や彩色担当者や絵画の画工らは、彦根藩御用絵師などの彦根藩との関係があった職能技術者であったと想定される。「長浜住み 早瀬守次」の墨書がある。

この人物は、ユネスコ無形文化遺産の長浜曳山の「青海山」山車の木彫り製作に携わった人物であり、狩野派の画工の山懸岐鳳とも親交があった。井伊八幡宮造営時期の彦根藩御用絵師には佐竹永海や狩野永岳と共に、彦根藩士の中島安泰がいる。中島は庶子時代の直弼に絵画の手ほどきをしたとされる。山懸とも関係が深い八木奇峰は四条派絵師であり、岸竹堂と共に中島の影響を受けた、絵師集団がいた。彦根藩御用絵師佐竹永海の作画材料調達の価格リストから、当時の最先端の輸入材料を調達していたことが分かる。

 

江戸時代に使用されていた金箔には、色吉箔・焦箔・常色・青色箔の、金と銀の配合率の違いにより4種類の金箔が存在した。彦根藩では色吉箔・仲色箔・青色箔が調達され、幕府御用事業の日光東照宮や江戸城西の丸で多用された焦箔は見られない。

 

井伊八幡宮社殿造営時期の彦根藩では、直亮・直中の十男・直弼の三男や直弼自身も狩野派や円山四条派の絵師より手ほどきを受けるなど、井伊家内には絵画に親しみ秀でた人物も多かったようである。想像の域を出ないが、拝殿や相の間の絵画には井伊家の所縁の人々の作画も含まれている可能性もある。直弼公が奉納した絵画が存在する可能性もある。

井伊神社の枝垂れ桜は、公益財団法人 滋賀県緑化推進会のHPには樹齢300年(推定)との記載があるが、直弼公は1815年生まれなので、お手植えだとしたら樹齢は200歳ほどであるから、外から移植したのか若しくは推定樹齢が誤っている。

1842年に造営なので、27歳で埋木舎暮らしの直弼公は、造営には関与していないと思われる。もしくは後に植樹した。

 

出典;彦根市指定文化財 旧井伊神社社殿調査報告書 
   令和五年三月 彦根市 歴史まちづくり部 文化財課

 

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